女二人 剣岳を行く  



 山小屋の浅い眠りのなかで、何度か風の悲鳴を聞いた。
その甲高い響きは、氷雪の剣岳に無念の思いを残して逝った魂たちの叫びのようでもあった。

 4時30分、剣山荘を出発。期待と少しばかりの不安を抱いて女二人のアタックが始まる。
雪渓を二つ横切って、ほんの少し登ると一服剣である。五竜岳からの日の出を待って一休みするのに丁度良い場所だ。行く手は天に直登するような前剣の峻険な岩屑の斜面。

「男の人が二人来るよ」
「追いついてきたらその後について歩こう」
虫の良いことを企んで長丁場の急坂に取り付いたが、道がない。
ご自由にお登りくださいというわけである。
高村光太郎の詩なら「歩いたあとに道ができる」のだけれど…、出来てない。

 自分の歩く所が道なので面白くてどんどん登っていたら、年輩の山男に追いついてしまった。
うしろの二人の男性はと見れば、はるか真下をあえいでいる様子。

 前剣のピークを越すと鎖場の連続になる。
岩場のトラバースにアップにダウンと、四つん這いの前進である。
岩角は手掏れ足掏れでツルツルに磨かれていた。

 難所のカニノタテバイにきたころは鎖慣れして、簡単に通過したような気がする。
頂上近くなって文子さんが「カニノタテバイは、まあだ?」と呑気なことをいうので
「さっき、写真撮ったでしょ。あの岩壁」
「エー、あれがそうだったの。私、何でこんな所で写真とるんだろうって思ったわ」
 この人、私より一回りも若くておしとやかなのに、山では怖いものがない。

6時50分、剣岳の山頂に立つ。
快晴の大空の下、北アルプスの峰々が朝の光に輝いていた。
眼前の八つ峰は、無数の刃を天に突き立て 人の通るルートとも思えない。
遠く八ヶ岳、富士山、白山、妙高、火打の山々も見わけられる。


 下山専用ルート”カニノヨコバイ”の高度感は素晴らしかった。
渡り終えたあとの岩棚の岩の割れ目に生えていた一本のミヤマオダマキ!
5cmほどの草丈を支えにして精一杯大きな紫の花を咲かせていた。 

 「来た! 登った! 下りた! 最高に幸せな夏!」 山小屋のノートに記した私の叫びである。
やっぱり、剣岳はすごい。
                     
                         (写真は剣岳の難所 ”カニの横這い”  絵葉書から)
 
 
(1996年 鷹11月号掲載文)

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